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2016年8月26日金曜日

シンクロニシティ・ミニマリズム

いま、作品を書いている。
その内容は、肉親が死んで、遺品の始末があって…
というようなもの。

で。
関連のあることがぞくぞく起こる。
初参加の場に行ったら、別々の葬儀へ行ったという人がふたり。
火葬の話を聞く。

無関係な題名の動画をぽちと押したら、母が死んだという導入。
遺品を整理していて、「はたしてこんなに必要なのか?」と思いミニマリストにというのが趣旨。
遺品整理のシーン。

歩き疲れて、デパートの椅子に座ってぼんやりしていたら、三人の足の悪い人が通る。
一人目はよく観察しないとわからない程度、二人目は歩きにくそう、三人目は明らかに悪い。悪化していく。

この符合さえ、作品に関連がある。

***

ミニマリズムについて。
これは実は、ただひたすらものを減らすというのが趣旨ではない。
ものひとつひとつについてよく考えるようになる。本当に必要か? なぜ必要か? 自分はどういう人生を生きたいのか? そのために本当に必要か?
ものにとらわれず自由になる。持っていればいるほど煩わされる。壊れたり傷ついたときにイライラしたりする。ものに時間を取られる。人間がものをコントロールしているように見えて、実は、ものに振り回されてしまっている。
たとえば、わたしは携帯を持っていない。
大阪に行ったときは、はぐれたらどうしよう…とちょっぴり不安だったが、大丈夫。
集中しているときに煩わされることもないし、常に気にする必要がもはや全然ない。
完全にプライベートが確保できる。
冷蔵庫もないし、洗濯機もない。
このあたりのチョイスは人それぞれだが、わたしは遊牧民のようにいつでも気軽に移動できる状態でありたい。あとはなるべくエコでありたい。
ネットで有名っぽい感じのミニマリストに、もう本当になにもかも削ってしまうという人がいる。
たとえばどこかの民族のように床で食事もできるだろうし、和室にある押し入れをデスクがわりにすることもできるだろう。
けれども、心が貧しくなりそうという理由でわたしはそれはしない。物書きなので、デスクは買った。
よく考えずにふっとものを買ってしまうと後悔することがある。大きすぎた、ものが増えてしまった、100均は質がダメだ、など。
特に100均はしょせん安物なので部屋が安っぽくなる。愛着もわかない。本当に必要なものなら、なるべくいいものを買って長く使う。
たったひとつのつまらないものに、数か月以上考えていることがある。
それは、たぶん、本当は必要ないのだろう。贅沢品は迷う。あるいは、なくても大丈夫だが便利になるもの。でも便利さは追求するときりがない。
服も極力減らしたつもりだがまだまだで、でもあんまり常に同じ服だと自分自身が嫌になりそうな気がする。人が見てどうかではなくて。
先述の動画はアメリカ人のプレゼンで、これは世界一の消費大国だ。
有名な話だが、いま、追いつけ追いこせ上へ上へとやっている国の人たちがアメリカに追いつくと、地球が4つあっても足りなくなる。
この、個人がどんどん自由になって、新しい価値観を創造していく時代にあって、もの=企業やメディアに振り回される生き方はとってもダサイとわたしは思う。しかも、人々は実際には全然幸せじゃない。日本人の幸福度はとても低い。会社にこき使われて、たくさん働いて…
わたしなら、空を眺めているだけで幸せになれる。一日中考え事をしていられる。
たくさん稼ぐ必要がないので、ぎりぎりのところで生活すればよく、自由に考えたり読書したり執筆したりできる。市民活動とかボランティアとかもできる。
もともと希死念慮のあるわたしは、死ぬときは死ねばいい。と思っている。
人間は、本当は、自分の生死さえコントロールできない。
自分の人生と生活のビジョンを持つことができれば、それに即して必要・不要を判断できるようになる。そうしてどんどん自由になれる。心が自由になる。
本当は、なにがしたいのか?
本当は、何者になりたいのか?
本当は…

ここに書いた一言一句さえ、今回の作品と関連がある。

2016年8月13日土曜日

街・地域・技術についての雑考(おまけ:文章の陳腐化)

引っ越しばかりしていて、ここ数年のうちに5か所は移動している。
最近また引っ越しをして、いま、机もないわたしは、椅子だけあるそのうえにPCを置き床に座してこれを書いている。

そんなことはさておき。

街についての一考を徒然に思った。
新居のある地区にはY駅・T駅・G駅とあって、わたしの最寄りはT駅である。
駅間は1.8kmくらい。T駅はちょうど中間になるので、この3駅間は自転車で簡単に移動できる。
都心にあるような駅とはむろん違うが、どの駅まわりもそれなりに発展している。
百貨店などはないが、デパートありレストランあり飲み屋ありといった規模。
この3駅、並んでいるわりには意外と雰囲気が違う。

2線が乗り入れ、都心に一番近いY駅。
駅ビルあり、外に出ると飲み屋の多い印象。例によっていくつものパチンコ屋。人も多くごみごみしている。

都心からは(ほんの数分)遠ざかるG駅。
雑居ビルに入った飲み屋、通りの広い商店街。アーケードまでついているが、人の数という意味では閑散としている。

そしてわたしの最寄りT駅。
駅を出て真っ正面が巨大な並木道。通常の車線に加えて自転車用・バス用の広い路側。駅周辺にあるのは、ちょっとしたモール、大手デパート、レストランなど。飲み屋とパチンコ屋はかなり少ない。

どの駅も生活圏だが、特にT駅の南側は住宅地としては理想的に見える。
団地のおかげで地域全体に緑が多く、トロントを思わせる巨大並木通りはこの真夏でも広い道路全体が日陰になるほど。
この地区は東西南北に計3本、大きな並木で交通量の少ない優良道路が短いながらのびていて、この3駅をつないでいる。
木々の小さなみみっちい並木ならどこでも見かけるが、この3道はそうではない。
狭い範囲ながら、自転車・歩行者・走者に親切な都市設計といえる。
こういう街は日本ではあまり見かけない。

普段から思っていたことを、引っ越し屋さんとも話した。
なにかにつけ都心に出るようなライフスタイルだと、住んでいる地域の街がすたれてしまう。
通販の多用も同じ結果を招く。
地域と関係ないどこかほかのところへお金がいくため、地域の店がみんなつぶれてしまう。
東京だけにすべてがあって、ちょっと郊外に離れると住宅しかない、という風になりかねない。いままで以上に、そうなりつつある。

技術の時代にあっては、以前は想像もされなかったような、意識的な生きる態度が必要と思う。
街や地域の問題のみならず、技術によって起きる弊害を意識的に克服する必要がある。
それには、発想や日常の行動を変えるだけで実現できることもたくさんある。

余談

「書くために」書かなければ、と思って書いた。
本当は、作品の文章価値も、ブログの文章価値も同じと思う。
だから、なんにしても時間をかけて推敲し緻密に書くべきと思っている。
ブログはそれに適していない。
それどころか、技術の時代では、ちょっと有名人なら誰もが出している大量の本また本、無名人でも猫も杓子も書いているウェブ文章などなど…明らかに文章の価値は陳腐化している。

「印刷術の発明は、読者の数を激増して、詩人や作家を大衆に従属するものとしてしまう。以前は詩人も作家も、彼らの貴族、すなわち、精通者と学識者にしか従属しなかったのであるが」アスリノー

文章のみならず、技術と商業の名のもとに、なにもかもが陳腐化しているのかもしれない。

2016年8月3日水曜日

火箭・赤裸の心(ボードレール)

静かな水のうえにかすかにゆれ動いているあの美しい巨船、のどやかにしかも郷愁を抱くかに見えるあのたくましい船舶は、無言の言葉で我々にこう告げているのではあるまいか、「いつわたしたちは、幸福へ向かって出発するのか」と。

多少とも歪んでいないものは感銘を与えないように見える。その結果、規則はずれ、すなわち、思いがけないこと、虚を突くこと、びっくりさせることが、美の本質的な一要素であり、また特徴である、ということになる。

コメント:
あえて未完成のところを残しておくといったような、昔の日本の美学に近いところもある。秘すれば花・わび・さび・粋(いき)など、昔はまともな美学があった。いまではウォシュレットくらいしかいいところがない。

わたしは「美」の、自分の「美」の定義を発見した。(中略)
不幸という感じを持つことが必要なのである。わたしとて、「歓喜」と「美」とは結合し得ないと説く者ではないが、ただ、「歓喜」は「美」の最も卑俗な装飾にすぎないと断言する。これに反して、「憂愁」は「美」のいわばろうたけたる伴侶であり、およそ「不幸」の存在しない「美」というものがわたしには全然考えられないくらいである。

コメント:
憂愁=憂鬱。憂鬱という翻訳のほうがいいと思うが、それはともかく。
人間は、苦悩に耐える姿が美しいのだという別の人の名言もある。
だから、ほとんどの文学は不幸や問題を描いている。

なにゆえに民主主義者が猫を好まないかは、察するに難くない。猫は美しい。そして奢侈、清潔、逸楽などを連想させる。

コメント:
ボードレールが理想としたのは、貴族政治だった。ただし、肩書きだけの貴族でなく、精神的な真の貴族。プラトンが唱えたような哲人王政治に近い。
選挙の結果を見るにつけ、まったくそのほうが正しいような気がしてくるが、問題は、哲人王などどこにもいないということ。

「進歩」思想よりも馬鹿げたものがあろうか、というのも人間は、日ごとの事実によって証明されているように、常に人間に似ているし人間と等しいからである。つまり、常に野蛮状態にあるからである。文明社会の日ごとの衝突や軋轢と比較するとき、森や野原の危険のごときはよくよく何物であろう。人間が街頭で自分のだましおおせた相手を抱きしめようと、人知れぬ森のなかで餌食を突き刺そうと、結局それは万代不易の人間、すなわち、もっとも完全な肉食獣ではないのか。

人間、すなわち各人は、道理にかなった階級制度が確立することは苦にするが、世をあげて低下することは一向苦にせぬほど、きわめて自然的に堕落している。

さりながら世界の破滅、あるいは世界の進歩(破滅でも進歩でも名称はどちらでも構わぬ)が、はっきりとあらわれるのは、別段、政治上の制度によってではない。それは人心の低下によってあらわれるであろう。

コメント:
ボードレールはほかのまともな芸術家たちと同じく機械文明を否定していた。
彼は150年くらい昔の人間だが、本質を見抜く詩人の洞察は狂わない。
結局、なにが変わったのか?
いまだに人類一致協力ひとつできない。
相変わらず殺しあっていて(技術のおかげでより効率よく)、金儲けの強欲は当時よりさらに悪化し、エゴの克服もほど遠い。
地球全体を破壊しようというひたむきな努力。

以上、『火箭』より抜粋

***

人類進歩を信ずるのは怠け者の学説だ。
(中略)個々の人が、自分の仕事をするのに隣人たちをあてにすることだ。
進歩(真の進歩、すなわち精神上の進歩)は、ただただ、個人のなかにしか、また個人自身によってしか、ありえない。
しかるに世界は、共同でなければ、徒党を組まなければ、ものを考えることのできない輩によって形成されている。

コメント:
人は独りでいられる能力を身につけねばならぬ、と、フロム(社会心理学者)もいっている。
収入の有無にかかわらず、自分自身の本当の仕事を持つこと。
結局、ありとあらゆる政治体制が夢想と化すとき、一番現実的で最終的な形態は、誰も彼もがひとりぼっちで生きていくことかもしれない。
修行僧のように、詩人のように。

広告を見ると激しい嘔吐をもよおす。

コメント:
まったく同感です。
特にTV。
偽者がたくさん出てきて、常に大衆をだまそうとする。

真の文明の理論。
真の文明は、ガスのなかにも、蒸気のなかにも、回転テーブルのなかにもない。真の文明は原罪の痕跡の滅却にある。
水草を追う民、遊牧の民、狩猟の民、農耕の民、さては食人族さえも、すべて、その精力により、その個人としての品位によって、われら西欧人に優っているかもしれない。

コメント:
宗教が衰え、文明人の品位もまた危機に瀕している。
なぜなら、より崇高なもののことを考えないということは、目の前にある生活とかお金とか娯楽とか、そんなことしか考えない人間ばかりがあふれるということだから。
ただし。
教団とか教義はすべてくだらない。
それでもいと高き形而上のことを常に想うこと。

商業は悪魔的だ、なぜかと申せば商業は、もっとも卑賤なそしてもっとも下劣なエゴイズムの一形式だからである。

コメント:
ウォール街や軍産学複合体や原発ムラを参照のこと。

世界はただただ誤解によって動いているにすぎない。

コメント:
わたしのいうことは常に曲解されるし、わたしもまた誰かのいうことを常に誤解している。
なにかがまったく正しくありのままに伝わることなどあるだろうか? という問い。

あらゆる観念は、それ自体によって、ひとりの人間と同じように、不滅の生命を授けられている。
創造された一切の形式は、人間が創造したものさえ、永劫不滅である。なぜかと申せば形式は物質から独立しているからであり、かつ、形式を構成しているものは分子ではないからである。

参考:
いかなる力もひとたび存在したものを滅ぼすことはできぬ。万物の遍在する大海に落ちたすべての行為、すべての言葉、すべての形、すべての思想が、そこに波紋をつくりだし、それは永遠のはてまで広がってゆく。(ゴーティエ)

進歩の法則が存在するためには、各人がその法則を創造しようと望まなければなるまい。つまり、すべての個人が進歩しようと専念するとき、そのときこそ、はじめて、人類は進歩するであろう。

参考:

以上、『赤裸の心』より抜粋

***

ボードレールを敬愛する心はずっと昔から変わらない。
じつに20年ぶりくらいに再読した。
記憶違いもあったが、よく憶えている。

2016年7月11日月曜日

デモクラシーからオクロクラシーへ(神武庸四郎)

社会的な意識や社会的つながりの点ではきわめて幼児的な「個人」のありかたを現在の社会における典型的な現象と考え、そうした個人を「孤人」と名づけた。(中略)ここでは日本語を用いてその「社会」を「離散社会」とよんでおこう。
(中略)
「孤人」のになうオクロクラシーは形式的・機能的観点からすると多数決による「多数派」獲得ゲームと見なされるようになる。「少数派」の人々がいかに社会的理念や社会的連帯を説いたところで、結局は徒労に終わる。むしろ、「孤人」の集合としての「離散社会」のもとではいわゆる「無知の無知」状況に加速されて人間の知性の成立基盤は人間自身によって掘り崩される。
(中略)
「孤人」ならぬ個人としての自覚を具えた人間、社会のありかたに批判的な人間、社会的イデオロギーのオルタナティーブ――「独裁」に対する「民主」、「不正」に対する「正義」、「通常科学」に対する「異常科学」、「強者」ではなく「弱者」を支持する立場、グローバルに対するローカルの立場等々――を追求する人間、要するに「あまりに人間的な」人間たちこそが「少数派」を形成しているのである。しかも、すでに指摘したように、オクロクラシーは人間が考案した最も有効な「多数派」形成手段であるから、それは論理的には人間社会からの人間の排除を、社会の「脱人間化」を、その意味で社会の機械化を究極にいたるまで推進するかもしれない。
(中略)
デモクラシーの脱デモクラシー化(オクロクラシー化)を推進するのはデモクラシーの産み出した「多数派」であって、その「多数派」こそはデモクラシーの理念を自覚することも、またそれをめざす運動に取り組むこともなく、もっぱらデモクラシーの形式的機能をみずからの利害にそくして利用する存在にすぎないからである。(中略)このように一般化された無責任システムのもとでは、みずからの社会をメタ・レベルで観察する視点は、失われないまでも前面に出てくる可能性がないので、理念やそれにそくした運動は存立しえない。「無知の無知」――いわゆる「民意」の堕落形態――がはびこるのみであろう。そこに成立するのは「多数派」の「自己満足」である。「多数派」は外生的に与えられた欲求充足のかたちに自分たちを適応させるだけで、あくまで受動的に「自己満足」という「下限」を見極める「行動」しかとらない。したがって、彼らは「少数派」の能動的な行動に対して「彼らの行動は自己満足にすぎない」と評価することによってみずからの「自己満足」を実現するだけである。

デモクラシーからオクロクラシーへ

***

UKのEU離脱(国民投票)を受けて。
参院選(2016)の結果を受けて。

少年のころからまったく同じことを感じ考えていた。
多数決を絶対視する制度下では常に多数が勝つが、知者や見者はいつの時代も少数だ。
ほとんどの場合、一時的な気分、印象操作、エゴ、などなどに左右されてことが決まる。
オクロクラシーというのは、定義的には「最低水準の民主主義」、またの名を、衆愚政治のこと。

2016年6月16日木曜日

壁の向こう側 ~参院選へ向けて

参院選(2016)へ向けて。

壁の向こう側

格差社会をテーマにした近未来小説。
企画の段階で内容が変更になったため、お蔵入りしたもの。
無料でお読みいただけます。

2016年6月14日火曜日

臓器移植 我、せずされず(池田清彦)

臓器移植 我、せずされず

いくつかのポイント。

死はプロセスであって、「この時点で死です」と科学的に定義することはできない。
一般にいわれている死というのは社会的な「みなし」である。

市場主義経済の観点から見たとしても、自分の肉体は労働などで得たものではないので、所有したりされたりすることはできない。
脳死か心臓死かという死の自己決定権があるわけではなく、身体の管理権があるのみ。

コントロール(管理)に対する問題。
科学や国家などの「好コントロール装置」は大自然に引き続いて、身体を、個人を、遺伝子を、管理下に置きかねない。

***

所有の概念の問題は、ひろげると自然、地球、土地にまで及ぶ。
たとえば土地の個人所有はおかしいと思っている。(国境も同じ)
所有ではなく共有と考えたほうが実態に近い。(すべての動植物と)
自分のものなどない、すべては借りものにすぎないと考えるなら、エゴはずいぶん変わってくる気もする。

自分の身体を自分の所有としない考え(つまり、命を与えられた、生かされている、ということ)は、つきつめると神とか宇宙の意思にたどりつきそうだが…

この本の論旨では自殺や尊厳死は否定されるが、心情的には大人の自殺は擁護したい。(子供の自殺は論外)

2016年6月7日火曜日

世界犯罪史(ウィルソン)

ラヴクラフトは現代文明の流れ全体に腐敗要素があり、このために自分のような人間はアウトサイダーや反抗者の立場に追い込まれると考えた。
この認識を最初に強調したのは二世紀以上も前の人、フランスの哲学者ジャン=ジャック・ルソーだった。(中略)
ルソーによれば文明はまがり角を間違えた。その価値もすべて間違い。尺度が成功にあるため、成功が成功を生み、間違いが積み重なるだけ。人類は種族単位で小さく静かな田園社会に住むケースがもっとも幸福。都市は醜悪以外のなにものでもない。
(中略)
人間は宇宙との「調子がはずれ」、「稼いで消費する」浅ましい世界の罠にはまっている。この不平は産業がヨーロッパに広まるにつれ明確な形を帯びはじめる。「美への飢え」だ。ロマン派の詩人によれば、美は必須ビタミンで、これが欠乏すれば魂はひからびる。英国の文学者ラスキンは詩人イエーツの父親にこう語っている。「大英博物館に通っているが、人々の顔が日々醜くなるのを感ずる」。イエーツ本人もこう書いている。「不格好な事物の悪は、語りつくせないほどにひどい悪である」。唯美主義者が唱える「美の宗教」は嘲笑の的とされて久しいが、その嘲笑は的外れと断ぜざるをえない。美を語ることは「なにか雲のうえの退屈なおしゃべり」とは根源的に異なる。それは「美の欠乏は、カルシウム不足や放射能への暴露と同様、ついには悲惨な結果をもたらす」ことの本能的な認識にほかならない。美の欠乏は意思の立ち枯れと生命力の衰弱を招く。

世界犯罪史(ウィルソン)

***

エンデのいうように、美を語るには審美眼を持った人がいなければならない。(視覚的な美醜でないことに注意)
絶無に近いので、世のなかはどんどん醜悪になっていく。メディアや、テクノロジーや、主流派のなかに美はほぼない。
でも、誰も気づきもしない。
上記ラスキンと同じことを電車に乗るたび痛感する。

この本には、生まれつき人を殺さずにはいられない殺人狂とかが出てくる。
そこで生まれる問い。
この人たちが生まれてきたことには、なにか意味があったのか? 本人が苦しまなければならなかったのか? 周囲の人たちが苦しまなければならなかったのか? なんのために?
生まれつき呪われた人間にはいったいなんの意味があるのか。

補足 6.26
脳神経の本を読んで、美や芸術について、視覚のみが語られていた。
わたしが思うに、上位の美と下位の美があるように思う。
五感に依拠した美は、より原始的に違いない。(この意味で、情動を刺激する文学は質が低いと判断される)
ある観念や物語を美しいと思うとき、そこには視覚も聴覚もない。
美しい観念。
思うに、より美的に(もしくは知的に)洗練されていないとこの領域には届かない。
文学は特異な芸術だが、人間唯一の特性「観念」をあつかう、より高位の芸術ということもできるかもしれない。