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2016年7月11日月曜日

デモクラシーからオクロクラシーへ(神武庸四郎)

社会的な意識や社会的つながりの点ではきわめて幼児的な「個人」のありかたを現在の社会における典型的な現象と考え、そうした個人を「孤人」と名づけた。(中略)ここでは日本語を用いてその「社会」を「離散社会」とよんでおこう。
(中略)
「孤人」のになうオクロクラシーは形式的・機能的観点からすると多数決による「多数派」獲得ゲームと見なされるようになる。「少数派」の人々がいかに社会的理念や社会的連帯を説いたところで、結局は徒労に終わる。むしろ、「孤人」の集合としての「離散社会」のもとではいわゆる「無知の無知」状況に加速されて人間の知性の成立基盤は人間自身によって掘り崩される。
(中略)
「孤人」ならぬ個人としての自覚を具えた人間、社会のありかたに批判的な人間、社会的イデオロギーのオルタナティーブ――「独裁」に対する「民主」、「不正」に対する「正義」、「通常科学」に対する「異常科学」、「強者」ではなく「弱者」を支持する立場、グローバルに対するローカルの立場等々――を追求する人間、要するに「あまりに人間的な」人間たちこそが「少数派」を形成しているのである。しかも、すでに指摘したように、オクロクラシーは人間が考案した最も有効な「多数派」形成手段であるから、それは論理的には人間社会からの人間の排除を、社会の「脱人間化」を、その意味で社会の機械化を究極にいたるまで推進するかもしれない。
(中略)
デモクラシーの脱デモクラシー化(オクロクラシー化)を推進するのはデモクラシーの産み出した「多数派」であって、その「多数派」こそはデモクラシーの理念を自覚することも、またそれをめざす運動に取り組むこともなく、もっぱらデモクラシーの形式的機能をみずからの利害にそくして利用する存在にすぎないからである。(中略)このように一般化された無責任システムのもとでは、みずからの社会をメタ・レベルで観察する視点は、失われないまでも前面に出てくる可能性がないので、理念やそれにそくした運動は存立しえない。「無知の無知」――いわゆる「民意」の堕落形態――がはびこるのみであろう。そこに成立するのは「多数派」の「自己満足」である。「多数派」は外生的に与えられた欲求充足のかたちに自分たちを適応させるだけで、あくまで受動的に「自己満足」という「下限」を見極める「行動」しかとらない。したがって、彼らは「少数派」の能動的な行動に対して「彼らの行動は自己満足にすぎない」と評価することによってみずからの「自己満足」を実現するだけである。

デモクラシーからオクロクラシーへ

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